壷屋焼「抱ち瓶」

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長男が「泡盛を飲む」というのを聞き、そういえば!と
水屋の最上段の奥にしまいこんだ壷屋焼の一群を取り出してみた。

沖縄から転居するため飛行機に乗り込むその日、
一足先に任地にたった夫に(シバースリーガル)を買ってくるよう頼まれ、
空港に行く前に那覇の国際通りに行った。
昭和55年、その頃まだ輸入酒3本という規制があった頃だ。
三人の子供を連れ、到着先の2月の本土の厳寒の気候に合わせて厚いコートを着ていた。
一番下の娘は2歳半だったので時々抱っこをして汗だくで移動をした。

買い物を終えて乗り込んだデパートのエレベーターのなかで、「芭蕉布」の歌が流れてきた。
本土から遠く離れ、新聞もラジオもテレビも野菜も肉も魚もすべて(沖縄)だった。
感慨深い。
「なつかしいこの歌ももう聴き収めよ」と子供に話していたら、
乗り合わせていたご婦人に声をかけられた。
琉球大学の講師をしているご主人のところに時々東京から訪れるという方だった。
私は今日が沖縄での最後の日なので、壷屋通りに行きたいと思っていると話すと、
丁度お土産をもとめに行く所だからとご一緒させていただいた。

国際通りから少し人通りが少なくなった山道を、
「これが登り窯よ」と説明をしてもらいながらまずは彼女おすすめの壷屋会館に着いた。
彼女は、「押し付けはしないけど、シーサーならこのお面のタイプの対がいいの、
(あ・うん)というでしょ、この口は福を吸いこんでその福をうちにいれておくの、
作者のこの面構えは迫力があるのよ、
特色のある形の抱ち瓶は花淹れにしてもいいの」と、いろいろ教えてくださった。
私はかねてから沖縄の「赤」に惹かれていた。
「そう 赤なら新垣さんね、いってみましょう」
そうして彼女のおかげで迷わず新垣さんの工房へ辿りついた。
亜熱帯の沖縄で、コートを着こんで幼子三人の子連れの上に大荷物、
まあまあと、工房の方が冷たいお茶を出してくださった。
ふと外庭を見かけると、いい日和の中石庭にゴザをしいて座り込み、小柄なおばあさんが作業をしていた。
ニコニコ顔で鼻歌で身体をゆすり調子を取りながら、
竹の小刀の先の手さばきも軽妙に、魚の絵柄を抱ち瓶に彫っていた。
なんとまあ簡単そうに。
しかし絵の魚は跳ねていた。
それは何ですか、と聞くと
「畑に行く時ね、泡盛をこの抱ち瓶に淹れ麻縄でしばって腰にぶらさげいくさ~。
そうして仕事しながらこうやって飲むさ~」と。
そうか抱ち瓶のこのカーブは腰にあわせてあるのか。
迷わず魚の絵柄と、赤の入った抱ち瓶を選んだ。
3本の洋酒は重かったが、(こんな機会はもう巡ってこないだろう) 
そういう気持ちが先立ち、その上、湯のみを5個、お皿を3枚、花瓶、シーサーのお面の対・・・・・・

あの時は32歳、若かった。
これだけの量の陶器とお酒、その他の身の回りの荷物をどう持ったのか。
火事場のなんとかともいうが。
私は本土から遠く離れた沖縄に2年間暮らし、逞しくなっていた。
まっさきに見舞われる台風のあらしに数日間さらされ、
朝のめざめを迎撃する刺すような太陽の光線ににめまいを感じながらも、
ウチナンチュウのゆるゆるとした暮らしも楽しんだ。
アパートから那覇の街に出かけるときは一番くすんだタクシーを選び、
海辺で夢中で遊んでいた子供をせきたて乗り込んだ。
アメリカ人を相手にしている生地の街(若松通りだったかな?)にでかけ、
鮮やかな色合いのローンの生地にうっとりし、
籐材料で作る鏡を切り出してくれる工場を見つけ宜野湾までバスででかけ、
加工してもらった厚い鏡を10枚膝に抱えて持ち帰ったこともある。
(ニライカナイ)という、しあわせは海のむこうからやってくるという思念も信じた。
毎日でっかい太陽が海にドボンと沈む、
そんな夕暮れを見た後、夕方から聞こえるサンシンの音色に郷愁をかきむしられた。
三人のこどもの笑顔をみたら弱音はふっとぶ。
私にわきあがるパワーをくれた沖縄。
「なんとかなるサ~」
そうして持ち帰った陶器をコタツの上に広げた時、自分でも唖然とした。
しかし大きな自信になったのは確かだ。

ひさしぶりに見た、沖縄の赤。
あの足の先から湧いて来るような想い。
あのパワーよ再びきたれ。

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